日本ハム・栗山英樹が抱く理想の監督「三原脩」とは?その共通項に迫ってみよう。
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「名将」には、目指す監督像がある。
2016年9月28日、栗山英樹監督が率いる北海道日本ハムファイターズがパ・リーグ優勝を手にしました。
実に球団として4年ぶりの、栗山監督自身にとって二度目の優勝です。
栄誉をなしとげた彼には、目標とする一人の人物がいます。
「球界の魔術師」と呼ばれた、三原 脩 (みはら おさむ) 氏です。
日本ハム・栗山英樹監督が追いつづける理想の監督、三原脩とは?
その姿へと迫っていきましょう。
- 「名将」には、目指す監督像がある。
- 夢やロマンを忘れない。監督で独自の戦術・理論を展開し、"魔術師"とも呼ばれた故・三原脩(みはらおさむ)さんを尊敬。
- 背番号「80」は日本ハム球団の初代社長でもある三原さんが監督として最後に付けた番号だ。「野球はこういうものという概念を捨てる」との考えが根底にある。大谷翔平選手の投打「二刀流」もしかり。「ワクワクするものがなければいけない」と大胆な起用で可能性を信じ、プラスアルファを求めた。
- 「三原脩、どんな人?」と表現するなら……
- “三原マジック”の真髄は、1960年に集約されている。
- 6年連続最下位に甘んじるチームを立て直す。
- 三原マジックの真髄、ここにあり
- 軸を据え、脇を固める
- 栗山監督とも似通う?三原監督の発言録
- 2011年栗山監督が就任。これは野球の神様の導きなのかも。
- これまでに書いてきた「野球」カテゴリはこちら。
【まえがき】
※上記の記事では、プロ野球の監督としては異質な栗山監督の特性・人となりを書き記しています。
栗山監督は、非常に情の込もった発言をするのです。
選手とは決してベッタリした関係にはならず、距離感は保つ事をわきまえている。
しかし決して選手を見捨てない。
何か可能性を引き出せないか…?と常に模索する…。
その姿・言葉はさしずめ、"先生"なのです。
この栗山監督が、監督就任前からずっと理想・モデル・理想のメンターとして抱き続けた監督像…。
それこそが、50年以上も前にプロ野球の監督として活躍した 三原脩 なのです。
夢やロマンを忘れない。監督で独自の戦術・理論を展開し、"魔術師"とも呼ばれた故・三原脩(みはらおさむ)さんを尊敬。
背番号「80」は日本ハム球団の初代社長でもある三原さんが監督として最後に付けた番号だ。「野球はこういうものという概念を捨てる」との考えが根底にある。大谷翔平選手の投打「二刀流」もしかり。「ワクワクするものがなければいけない」と大胆な起用で可能性を信じ、プラスアルファを求めた。
-2016年9月29日 「毎日新聞 朝刊 ひと」より引用-
「三原脩、どんな人?」と表現するなら……
一言で言い表せば、
「弱者を強者に変える、名軍師」でした。
1912年、香川県で。
当時、それぞれ野球の強豪であった高松中(現・高松高校)、早稲田大学の内野手として活躍し、1930年代・学生野球界のスター選手でした。その後、読売ジャイアンツ(巨人)の前身である「大日本東京野球倶楽部」の結団一年目のメンバーとして活躍しました。
戦争による兵役を経て、1947年に巨人の監督に就任。1949年に巨人の戦後初優勝を飾りました。
その後、巨人の人事調整に反発し、セ・リーグからもう一つのリーグ、パ・リーグの西鉄ライオンズの監督に就任。
「野武士軍団」と呼ばれた強力なチームを作り上げ、1956~58年には古巣・巨人を3度にわたって倒し、西鉄を日本一に導いたのでした。
(1958年の日本シリーズ。3度目の巨人との決戦は、敵地・後楽園で2連敗。本拠地の福岡・平和台でも3戦目を落としてしまった格好であった。)
西鉄はいきなり三連敗を喫し、土俵際に追い込まれた。
普通の監督なら「ひとつくらいは勝て」と発破をかけるところだろう。だが、三原は違った。
敵地・後楽園で2連敗した後、福岡へ帰る夜行列車の車中で選手たちは酒盛りを始めた。
三原は、それをただ黙って見守っていたという。潮目が変わる瞬間を辛抱強く待っていたのだ。……
後のなくなった4戦目。
主砲・中西太がようやく復活、背水に燃えるエース・稲尾和久が4連投。
稲尾はなんと6戦、7戦と完投して巨人打線をほぼ完全に抑え込んだのだった…。
「勝負師は"機をつかむ"ことである。油断と驕りは力の中に巣食う白アリだ。その人穴から、強力なものも崩れ去っていく。
力のないものが握る勝利。それが風雲に塗るということであろう。」
当時、プロ野球を引っ張っていたのは、巨人(読売ジャイアンツ)。
"球界の盟主"と呼ばれる巨人を、3度にわたって返り討ちにした。
これだけでも、三原監督のチームを育てる手腕は間違いなく素晴らしかったと言えましょう。
↑ 1958年、三度目の日本一を決め、胴上げされる三原監督。
しかし三原監督の真髄は"西鉄の黄金時代"を築いたことではありません。
たった一年だけ、
6年連続で最下位を喫するようなチームを、優勝チームへと導いたことにあるのです。
1959年“球界のお荷物”と呼ばれた、大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ) 監督に就任。
1960年、6年連続で最下位に沈む大洋を、”リーグ優勝・日本一”にまで導きました。
その大洋に集った選手たちは「他の球団へ行っても、数年で引退するのがオチだ」という評価を受ける選手がほとんど…。主力はせいぜい数えるほどの状況。
その選手たちを最大限活かし、再び大輪の花を咲かせたのです。
この年の手腕ぶりから、“球界の魔術師”という呼び名をほしいままにしたのでした。
この優勝を最後に、栄冠を得ることはありませんでしたが、
いずれのチームも、のちに初優勝・10数年ぶりの優勝を勝ち取るに至るのでした。
ここからは、三原監督の集大成となった1960年に焦点を当てて書き記していきましょう。
“三原マジック”の真髄は、1960年に集約されている。
三原監督は、1960年に大洋の監督に就任しました。
それまで率いたパ・リーグの強豪球団・西鉄とは打って変わって、セ・リーグ6年連続最下位のお荷物球団への監督就任は奇異の目を持って迎えられました。
三原の大洋監督就任はプロ野球界のみならず、
あまり野球に関心のない層からも、驚きの目を持って迎えられた。
「西鉄を日本シリーズ三連覇に導き、功なり名を遂げた押しも押されもせぬ日本一の名監督が、なぜ、よりにもよって万年最下位の大洋に」というのが、大方の率直な反応だった。
ー 三原脩の昭和三十五年 ーより
この舞台裏では、大洋の球団代表であり、三原監督にとっては早稲田大学の先輩でもある森茂雄氏の熱心な誘いがありました。
大洋漁業の社長であった中部謙吉も、よく遠洋で獲った魚を選手たちにご馳走をよくし、選手や家族の世話を積極的にしていたのでした。
↑ 大洋ホエールズのオーナー・中部謙吉と握手する三原監督。中部は三原や選手たちに熱意を持って接した。
6年連続最下位に甘んじるチームを立て直す。
当時の大洋は、いや大多数の選手は勝っても感激のなく、負けても悔しさのない覇気のなさが蔓延してました。
この当時「学生野球界で最も厳格」と言われた明治大学出身の選手がこのチーム状況を嘆いていたほど。
明治大学出身のエース投手・秋山登(あきやま のぼる)、正捕手・土井 淳(どい きよし)の両選手が厳しく接しても、無駄足を踏むような状況でありました。
"弱小"の雰囲気が色濃く残るこのチームに、三原監督はどのように立ち向かったのでしょうか?
三原マジックの真髄、ここにあり
三原監督はまず現状把握のために、
①シーズン開幕前のオープン戦で打順を入れ替え、選手の適性を試しました。
チームの現状分析・選手適性のテストです。
すぐには戦力にはなれない選手は課題を持たせて二軍へ練習させ、一軍に残った選手の適性を振り分けます。
当時の主力選手の中には「自分の地位は安泰だ」といって、オープン戦でも手を抜く選手もいました。
このような選手に対して、三原監督はすぐに交代させ「お前のレギュラーの座は保証しないぞ!」と厳しく叱責。
諦めに満ちていたチームの雰囲気が、徐々に変化していきます…。
若手選手たちのゲームへの取り組み、いや、それ以上に野球そのものへの姿勢が日を追って変わっていった。
優勝争いをするようなチームならごくごく当たり前のことが、万年最下位の上、まるで厳しさに欠けていた大洋の選手たちは、三原が考えた以上のカルチャーショックとなったのである。
ー 三原脩の昭和三十五年 ーより
軸を据え、脇を固める
雰囲気が変わり、若手にもチャンスの風を吹かせた三原監督は、
つづいて投手・野手両方の軸を固めます。
投手の柱にエース秋山を、打線の核に主砲・桑田武(1959年本塁打王)、近藤和彦(天秤打法で知られた好打者)を置きます。
さらに短所を持つ選手達の起用法を変えて、限られた戦力を最大限活用させていきます。一例を挙げると、
・「プロ野球記録の28連敗」の自信喪失から復活。権藤正利(ごんどう まさのり) 投手
・高卒三年目ながらリリーフエースとして大抜擢。鈴木隆 投手
・守備ヘタから「元祖・代打男」として活躍、麻生実男 遊撃手
…この指揮によって、
・ 1点差ゲームで33勝17敗(勝率.660)
強豪球団である巨人・阪神を上回る強さを見せて、優勝しました。
その勢いそのままに、毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)との日本シリーズに挑みます。
なんと全て一点差で勝利し、4勝0敗で日本一に輝いたのでした。
もちろん、最下位からの日本一を達成は史上初であり、
今なおプロ野球史で唯一の「最下位からの日本一」を叶えたのでした。
まさに三原監督の集大成とも言える、1年と言えましょう。
栗山監督とも似通う?三原監督の発言録
栗山監督は「選手を活かすことが監督の仕事」だと明言しました。
このことは、三原監督の発言録からも垣間見ることができます。
①:遠心力野球
「選手は惑星である。それぞれが軌道を持ち、その上を走っていく。この惑星、気ままで、ときには軌道を踏み外そうとする。
そのとき発散するエネルギーは強大だ。遠心力野球とはそれを利用して力を極限まで発揮させる。」
ー「風雲の軌跡 ~我が野球人生の実記~」よりー
すでに三原監督は悟っていたのです。
ただただ強い選手を揃えることだけが勝つ道ではなく、
選手の特性を活かすことで、強者にも勝ち得るのだと。
選手に対する考え方は、「遠心力」という言葉に集約されています。
②:長所を存分に活かすためには…?
「タイプの違った二人の選手の長所をうまく組み合わせて起用すれば、
一人のスタープレーヤーに匹敵する戦力が生まれる」
-三原監督の手記より-
1960年当時の大洋は固定して起用できる選手が少ない状況でした。*3
打撃が苦手な選手、守備が苦手な選手、体力が少ない投手…
三原監督はそれぞれの短所を埋めるように、積極的に選手交代を使いこなして、
「失点を最小に防ぎつつ、終盤のチャンスで得点を奪う、守り勝つチーム」
を作り上げました。
その結果、 得点380に対して、失点361を記録。
先の通り、1点差ゲームで33勝17敗(勝率.660)と、接戦では無類の強さを見せました。
三原監督は選手の特性を踏まえた上で、最大限活きる起用法を模索していました。
この点は、非常に栗山監督と似通った点かもしれません。
2011年栗山監督が就任。これは野球の神様の導きなのかも。
1984年2月8日、三原監督の訃報を報じた朝日新聞は以下のように評し、惜しみなき賛辞を送りました。
“風雲児・魔術師・知将…。波乱に満ちた三原氏にはさまざまな呼び名があった。”
“弱小チームを変身させることに「男の生きがい」を求めた。”
三原監督は日本ハムファイターズとも縁があり、1974年に日本ハムの監督に就任。同時に「球団社長」「球団代表」「監督」の三役を兼ねた、GM(ゼネラルマネージャー)として球団再生に携わりました。
そんな魔術師・三原監督の居た球団の監督に就任したのは、野球の神様の思し召しなのかもしれません。
↑ 栗山監督は毎年、三原氏の墓前に訪れている。
※「北海道日本ハムファイターズ」の試合をTVで観るなら。
どちらかに登録して、視聴可能。
これまでに書いてきた「野球」カテゴリはこちら。