【コラム】監督就任から6年 「人を育てる名将」栗山英樹監督の凄さとは?
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※初更新:2016.6.8 (2018.3.15 出版「育てる力」を加筆)
みなさんには「憧れの存在」がいますか?
立ち振る舞いがすばらしい!矢面に立って戦う力がある…。
指導者=リーダーに対して思うことは沢山あるでしょう。
私は、確たる方向性へ導き、これからの未来予想図を描くようなリーダーが好きです。
特に「共感し、その人の良さを引き出す」ようなリーダーに憧れを抱いています。
たとえ野球という特殊のように思える分野であっても、
人の力を引き出し、導くための考えは、どの分野でも普遍的なものになるのですから。
この野球の世界でも、たくさんの"名将"と呼ばれる「監督」が世に出てきました。
しかし、この記事で書く監督は「新時代の監督」と言っても良いでしょう。
時代が変わるにつれて、全体的な選手の傾向や社会背景が異なり、
今の時代にもっとも適した監督だと言えるから…。
この回では「人を育てる名将」、北海道日本ハムファイターズの栗山 英樹(Hideki KURIYAMA) さんについて書き記します。
【追記:なぜ知名度もない筆者が、栗山監督のことを書くのか?】
たまたま読者となった、あなたに伝えたいからです。
私はこう考えます。
野球は「言葉」「間」「雰囲気」のスポーツと。
すこしイメージしてみてください。
思い起こすと、野球には沢山の「間」があると思いませんか?
(例えば、攻守交代や、一球投げるまでの時間…野球にはたくさんの"間"があるのです)
サッカーやバスケと比べても”間”で占められるスポーツ…。
つまり、この"間"を使って、どう考え、決断するかが重要なのです。
「考え、決断すること」には、論拠や客観性、また自己コントロールが必要です。
特に、選抜され尽くした選手が集まるプロ野球では、運動神経・思考に至るまで大雑把なプロセスでは通用しない、非常に緻密な世界だと言えます。
裏を返せば、考え方次第ではフィジカルエリートにも勝てるわけです。
それは、
・チームという、人々の集合体にも言えることである_。
・たとえスーパースターが9人いなくても勝てる、成果を上げる方法はある_。
ことを、野球というスポーツで示したのが、栗山英樹監督なのです。
事実、「選手の補強にお金をかけられない」事情を持つ北海道日本ハムファイターズで、「6年間で2回優勝」を勝ち取りました。
栗山英樹は、
プロ野球に「言葉の力」「哲学を持った人の強さ」を吹き込んだ_。
そして、その事実をファン歴10年以上の僕がまざまざと感じた_。
ここにたどり着いた、読者の世界観が広がるための一助になれれば嬉しい限りです。
- みなさんには「憧れの存在」がいますか?
- ◆栗山英樹ってどんな人?
- ◆原点① 7年間の選手時代。引退の理由となった病気が、強さと優しさの源
- ◆日本ハムに招聘された理由「栗山町観光大使」
- 従来の「監督像」とは異なる、"教え導く人"としての監督
- すべてが勉強になる_圧倒的な「知性」
- 熱すぎるくらいの、選手への情熱。
- 「栗山英樹」のような、「言葉に愛のある」リーダーになりたい
- 続きはこちら。
- 【追記】栗山監督の著書まとめ
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※【 はじめに】
この記事は私、「北のウォーリー」こと片岡慎悟のコラムです。
10年来日本ハムを応援し、プレー歴15年を数える私の観点から書きます。
もし興味が出てきたら右の記事や、いま滞在している高知県のお話もチェックしていただけると嬉しいです!
◆栗山英樹ってどんな人?
【略歴】
1961年4月26日 東京都小平市出身
1991~2011年 スポーツキャスター、解説者、大学教授として活動
2012~ 北海道日本ハムファイターズ 監督
1961年4月26日、東京都小平市の生まれ。創価高校→東京学芸大学を経て、1984年にプロ野球選手(ヤクルトスワローズへ入団)となりました。
(大学4年次までは教員を目指していたそうですが、プロ野球選手への思いが再燃し、入団テストを受験・合格したのです。)
⬆️ ヤクルト時代の栗山監督。小柄でパワーがない自分が希少価値を高めるにはどうしたら…と考え、内野手から外野手へポジションを変え、左打ちへ挑む。「活かせると感じたことには、何にでも取り組んだ」と述べる。
1986年、1988年と2度の打率3割*1を記録し、1989年にはゴールデングラブ賞*2を受賞しました。
しかし1990年のシーズンを最後に現役引退、突然に選手のキャリアを終えてしまいます。この時29歳と野球選手としては短命でした。
その後は「野球解説者」「スポーツ番組司会者」「大学教授」など、元プロ野球選手としてはかなり特色のあるキャリアを積み重ねました。
2011年の冬に転機が訪れます。
北海道日本ハムファイターズから「一軍監督」の依頼が来たのです*3。
彼はその依頼を引き受け、2012年から現在に至って日本ハムの監督として指揮を執り続けています。
指揮官として、2度のリーグ優勝・1度の日本一、そして5年間でAクラス*44度を記録。
およそ「素人監督」とは呼べない成果を残してきたのです。
では、その原点は何なのか…?
それを探っていきましょう。
◆原点① 7年間の選手時代。引退の理由となった病気が、強さと優しさの源
入団テストを経てヤクルトスワローズに入団した栗山監督。
現役時代の2年目、試合中に強い目まいを覚えました。
病院で、耳中の三半規管の異常が起こるメニエール病と診断されたのでした。
「ある時、練習に来ないので"クリはどうした?"と聞くと、誰かが"朝起きたら目まいがする"と。それで練習後、本人に"大丈夫か?"と聞くと"目が回ってちゃんと立てないんです"と言っていました。
二軍の試合中、目が回ってフラフラになりながら、タイムをかけ、途中交代したこともあったと聞きました。疲れがたまると良くなかったみたいですね。ただ、彼が立派だったのは、そういう病気を言い訳にしたり、弱音を絶対に吐かなかったこと。いつも、ひたむきに野球をやっていましたよ」
ーヤクルト時代の先輩・杉村繁の話ーより
一時的に症状を軽くすることで成績を残したものの、身体は蝕まれてゆく。
しだいに練習メニューをこなせないほどに体力が減退。
「このままでは日常生活すら困難になる…」
球団から「1年間の休養」「復帰するまでのフォローを約束する」という好条件で復帰までの後押しを打診されたそうですが、1990年に引退を決断。
「あの頃、ヤクルトには柳田浩一や飯田哲也といった僕と同じタイプの若手が出始めていた。もし僕が監督でも、将来のチームのことを考えれば、そっちを使っていたと思うんです。
だから、野村*5さんとの時間は僕にとっては宝物なんです。
あの経験があるから、今、選手たちに対して、きちんと向き合うことができるんだと思います」
野村監督に冷遇された側とは思わず、むしろ
「組織が発展するには?」「監督はどんなことを考えているのだろう?」を学ぶ機会を得たのでした。
◆原点② 解説者・司会者・大学教授…異例のキャリアで育んだのは、先生のような温かく、強い「言葉の力」
引退した翌1991年から解説者、キャスターとして客観的な視点から野球を伝える側へと転身。
解説者時代はテレビ朝日「ニュースステーション(後の"報道ステーション”)」でスポーツキャスターを務めます。
特に当時、アメリカで活躍していたノーラン・ライアン投手や高校野球へのインタビューをはじめとして、日本プロ野球のみに留まらない取材は好評を博しました。
知的な雰囲気に、丁寧・分かりやすい解説、温かみのあるインタビューはさながら「先生」のよう。
平日・夜の名スポーツキャスターとして全国に知名度を拡げました。
古舘 伊知郎 氏(左側)らの質問に対して、簡潔明快な切り口の解説はお茶の間の人気を博した。
さらに白鴎大学から先生として招聘され、
スポーツキャスター、大学教授、ジャーナリスト…という特異なキャリア。
そうした背景を持ち、満を持して日本ハムの監督となったのです。
野球の細かな技術はコーチが指導すればいい。では監督はというと、個々の選手が能力を出し尽くせるよう気付きを与えるのが仕事だ。
そのために言葉をどう伝えるかは大きなテーマとなる。
言葉より強く怖い武器はない。たった一言で、前向きになれるし、逆に後ろ向きなってしまうこともあるためだ。
◆日本ハムに招聘された理由「栗山町観光大使」
実はもう一つ、日本ハムとの縁があった理由があります。
2002年から、自らの名前と同じ「北海道・栗山町」の観光大使を務めているのです。
アメリカへの取材を通じて夢抱いた「天然芝の美しい球場を作りたい」という思いと、栗山町の活性化を目指した青年会議所の人々との願いが一致して、
1998年から4年の歳月をかけてログハウス・天然芝の球場「栗の樹ファーム」を創り上げたのです。
↑ 実際の栗の樹ファーム 米国の映画「フィールド・オブ・ドリームス」そのままの美しい情景は、さしずめ野球界の桃源郷か。
「天然芝は転がっても痛くないし、安心してプレーできる。だから楽しい。楽しいからもっとうまくなろうって頑張れる。
土の上で泥だらけになって野球やるのも必要ですが、それよりも『楽しい!』って思えることが先じゃないでしょうか。
芝の上だと転がっても痛くないから楽しいという発想、それがスポーツの文化だと思うんです」
こうした北海道との繋がりも相伴って、北海道日本ハムの監督に就任したのだと推測されます。
「北海道には僕が作った球場 (栗の樹ファーム)がある。昔から大好きな土地柄なんです。加えて、ここ(北海道日本ハム)はフロント主導型の球団。
僕がキャスターをやっていた頃、そういう方向が今後のプロ野球界に望ましいと伝えてきました。
この球団なら、僕にもやれることがあるのではないか……。そう考えると(就任の決断は)難しくはなかったですね」
二宮清純レポート 栗山英樹(51歳・日本ハムファイターズ監督 )小手先の技術より、最後の勝負は「愛」だよ(週刊現代)より
栗山監督自身も、最も願ったチームからのオファーでした。
従来の「監督像」とは異なる、"教え導く人"としての監督
どんなスポーツでも、
監督=指揮者 (将棋・チェスの棋士)
選手=駒 (歩・金将・飛車etc)
のように例えられます。
その選手たちに対する監督のコメントには時には辛辣なモノもあります。
_どこか選手を突き放すような、他人行儀な発言に、違和感を感じないだろうか?
私は、たとえその言葉に何か意図を持ったうえでの発言であろうとも、
"敬意"を感じられない点で違和感を覚えるのです。
対して栗山監督は、言動に"情"を意識します。
選手とは決してベッタリした関係にはならず、距離感は保つ事をわきまえている。
しかし、決して選手を見捨てない…。
「何か、この選手の可能性を引き出せないか?」と常に模索する…。
その姿と言葉はまさに"先生"です。
選手たちに対して真正面から向き合う姿勢は、過去の発言からも伺えます。
教えてもできないのは、選手のせいだという考え方がある。
だが、プロの門を叩くほどの選手は、誰もが優れた才能や素質の持ち主であるはずだ。それでも教えたことができないのは、できるように訓練させていないから、そう考える。
では、どうしたらできるようになるのか、
その持って行き方を教えてあげるのが指導者の仕事なのではないか。
(中略)
あとは、とことん続けてみるだけだ。
栗山監督は「チームは小学校みたいなもの」と述べます。
選手の芽が伸びるまで我慢し、見守ることが肝心だと述べており、「指導者の役割とは?」を自覚しているのです。
そうした考えのもと、選手たちの才能が花開いたのでした。
すべてが勉強になる_圧倒的な「知性」
自宅「栗の樹ファーム」のグラウンド・畑を手入れしながら…
シーズンオフに、たくさんの読書を通じながら…
時流を感じながら…
たくさんの物事から、考えを巡らせ、深めていきます__。
ここまで来て、自分たちで決めなさいと (同率首位の福岡ソフトバンクとの2チームを) 横に並べたんじゃないか。
「あなた方は何ができるんですか」と聞かれている気がする。
-2016年 9月20日、首位決戦を控えて-
【解説】
_記憶に新しい昨年2016年、強豪球団ソフトバンクと、首位決戦を控えてのコメント。
運営母体であるソフトバンクはご存知の通り日本発IT企業の覇者であり、豊富な資金力を背景とした充実した施設・強打者を揃えられる球団だ。事実、2007~2016年の10年間のうちに4度も日本一になっている。まさに「恵まれた球団」だ。
対して北海道日本ハムは「球場移転問題」もあり、資金の使い道に限りがある。毎年それで悩み、泣く泣く育てた選手を放出することも。
前年の2015年にはソフトバンクに圧倒的な差を見せつけられ、12.5ゲーム差の独走を許す屈辱を味わった。
しかし、それでも2016年には肩を並べる位置まで来た。あとは自分たちはなにを考え、その決断をどう試合で出すか。まさに栗山監督の明鏡止水の心情を、言葉となって出たのだと実感する。
栗山監督の強さは「知性」に裏付けされています。
年代・国に問わずひろく野球を見続けては、読書して論議し尽くしてきた…。
こうした圧倒的な経験量が、栗山監督の屋台骨となっているのです。
熱すぎるくらいの、選手への情熱。
そうして得た知見は、選手たちへの思いや願いとして昇華されます。
栗山監督の言葉には、選手への情熱がひしひしと感じられるのです。
「なぜ1年目から(中田)翔を4番に置いたのか。みんな、やっと分かってくれたかなと。オレは、あの活躍を待っているわけだから。
翔には1人でチームを勝たせられる能力がある。
これは特別な能力。オレはアイツの能力に心中してきたわけだから。
オレからすると『これが普通の中田翔でしょ』と。そんなにすごいと思わない」
【解説】
不動の4番を務める中田翔選手が国際大会[プレミア12]で活躍する姿を見て。
監督に就任した2012年当時、入団5年目の中田を4番に固定することを表明。不振で20数打席ヒットが出なくても先発出場・4番から外す事は無かった。「ウチの4番は翔」「オレは翔を信じてる」
その後、不動の4番として初タイトル(打点王、ベストナイン)を獲得し、日本代表にも選出。年末のバラエティ番組にも出演するほどのスターに駆け上がった。
「入団当初はプロ野球を舐めていた」と語り、今ではチームリーダーとして立ち振るまう彼の姿を見れば、栗山監督の飛び抜けた我慢強さ・粘り強さが伺えるだろう)
「ここ(1軍)に置いておく方が
遥輝のことを愛していない」
【解説】_(2015年、シーズン終盤まで不振を脱しきれない主力・西川遥輝選手を二軍に落とすことを決めた際に感じた思い。
このとき西川には2年連続「盗塁王」のタイトル獲得がかかっており、「タイトルの栄誉を奪ってしまう」ことと、「西川の成長」を天秤に掛けざるを得ず、考え尽くした末の決断だった。
西川自身も栗山監督に言い出すことができず、それでも好転させようと暗中模索していた。日本代表にもなれる力を持っているだけに、どれだけ悩み抜いたのだろうか…
その西川は2016年に打率.316を記録、不動の主力選手へと駆け上がる)
「君の(米国時代の)ビデオを見たよ。日本の野球に慣れるには時間がかかるだろうけど、必ずや結果を残すだけの実力はある。
将来メジャーに戻りたいのならその意思を尊重する 。
その為にも日本での1年間は無駄にしないことだ。
結果が出るまで俺は使い続けるぞ。日本へようこそ!」
【解説】
2015年はじめ、ブランドン・レアード選手が入団した際に贈ったコメント。
今では「スシ・ボーイ」と、ホームランを打つと寿司を握るしぐさが人気を博し看板選手に。当時は中距離打者・堅固な三塁手として獲得したものの、「ホームランか三振か?」というくらい極端な選手だった。
そんなレアードの1年目、2015年。前半戦は打率 .186と順応できなかった。12本の本塁打を放っていたものの、5月に入ってからは全く打てる雰囲気を感じなかった。当時の私が見ても、とてもいい選手には見えなかった。
たいていの監督なら痺れを切らせて二軍行きを命じているはず。
しかし栗山監督は海外スカウトから聞いた「レアードは後半に必ず調子を上げてくる。起用し続けてください」との言葉を信じて、スターティングメンバーに名前を書き続ける。
その言葉通りに打棒は爆発。後半戦は打率2割8分8厘・22本塁打・54打点を記録した。
前半の不振からはとても考えられないような活躍ぶりを見せ、最終的に34本塁打を放つ活躍を見せたのだった。
2年目のシーズンを迎えた2016年。春先から打ち続け、39HRを記録して本塁打王に輝いた。チームも4年ぶりの優勝を勝ち取る。その優勝のメッセージでレアードはこう感謝の言葉を述べた。
「来日1年目。絶不調の私を信じて使い続けてくれたことは、生涯忘れません。言葉では表せないほどに、感謝しています」
「今の自分があるのは、栗山監督のおかげです。今年もう一度監督を胴上げしたいので、絶対に日本一になります 」
2016年の日本シリーズで3HRを放ち、日本一と「シリーズMVP」を得た。
レアードほど義理堅いプレーヤーはいないだろうし、栗山監督ほど彼を信じた人もいないだろう。
「感情をむき出しにしていくのが好きなんだよね。
今日みたいに、見ていて楽しそうな(大谷)翔平が好きなんだよ」
【解説】_2016年6月5日、先発した大谷翔平選手の活躍する姿を見て。
大谷翔平は日本プロ野球界で、投手と打者の両ポジションで活躍するトップの選手だ。その姿は"二刀流"とも呼ばれる。
高校時代の大谷は「日本プロ野球には入らず、直接メジャーに挑戦したい」と発言。
日本球界に入ることはまずないと思われた中で栗山監督も交渉に加わり、直接交渉の末に入団させることに成功した。
「天下を取れ_」
栗山が大谷へ伝えたメッセージである。
日本ハムのエース・中心打者として君臨し、2016年のパ・リーグMVPを受賞。
そして2017年冬、彼はアメリカ・メジャーリーグへ渡ろうとしている。
メジャーリーガーへと歩む大谷への言葉は、誰よりも厳しくて、温かい。
「栗山英樹」のような、「言葉に愛のある」リーダーになりたい
組織は、解散しない限り、生き続けます。そこには「人」という要素を欠くことはできません。
組織は「人次第」。
結果も求められつつも、人を育て、導くための存在にリーダーはならなければならない…。リーダーとして在るべき姿の一つを、栗山監督は僕たちに示してくれているのだと感じるのです。
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続きはこちら。
【追記】栗山監督の著書まとめ
①未徹在
絶対的エース・ダルビッシュ有投手を欠いた中で成し遂げた2012年の優勝。
一転、中心選手の移籍に主力の怪我…再建期となった2013年。
難攻不落のソフトバンクへの下克上に臨んだ2014年。
2年の再建期からようやく、若手の躍進を感じた2015年…。
4年間の記録と、どのように選手と距離感を保って"中間管理職"として振る舞うか…?
栗山監督にとっての"監督の流儀"とは?
さらにチームの柱・田中賢介や陽岱鋼、吉川光夫、中田翔、大谷翔平だけでなく、2015年一気に中心選手へと駆け上がった中島卓也、近藤健介ら若手選手、開花した助っ人・レアードも取り上げ、"個人"にクローズアップした一冊。
そして栗山監督を支える"世界一"のコーチ陣に「裏方」の素晴らしいスタッフの方々…。監督が見る「北海道日本ハムの凄さとは何か?」が伺えます。
②伝える -言葉より強い武器はない-
日本ハム監督に就任して1年が過ぎた、2012年末出版。
当時、新人監督だった栗山監督がどう考え、どう選手たちに言葉をかけ続けてきたか…。試行錯誤して戦い続けた一年間の記録。
彼がどんな本や人と出会ったのか?「指導者・栗山英樹」へと変わるまで…。
この中に出てくる本も名著ぞろい。新しいポジションについた際にぜひ一読を。
③「最高のチーム」の作り方
2016年は 二度目の優勝に、初の日本一を掴んだ年。
チーム作りの実践編として読み進めることができます。
このシーズンから栗山監督は、
「自分の意見が "譲れない" と感じたら一歩も譲歩しない」と決意しました。
優勝する可能性が1パーセントでもある限り、とことん考え抜く場面がありありと映ります。
そうして成し遂げた優勝・日本一。
たどり着くまでには、選手の不調や故障をはねのけるアイデア・マネジメントがありました。
・守護神の増井浩俊 投手を先発へ転向 →先発8試合で7勝 防御率1.14。
・DH(指名打者)を使わず、大谷翔平を起用 → 打率.322 本塁打22本の自己ベストを記録。投手として10勝を記録しMVPに。
監督は、
「本人が気づけないことを、気づかせてあげるのも僕達の役割だよね」
と話します。そのアイデアの源泉と選手それぞれの思いが描かれています。
④栗山魂
2017年の最新刊で、自叙伝の完全版となる一冊。
過去の著作ではあまり触れられなかった小学〜大学時代、選手時代のエピソードを中心に記載されています。
※ なお、キャスター時代から栗の樹ファームを開いた頃 (1991~2004年頃) は大きく省略されているので「栗の樹ファーム物語―栗山英樹、野球場をつくる」も参照したいところです。
⑤育てる力 (2018年新著)
東京海上火災保険、キリンビール、東京証券取引所ら500もの企業を設立した渋沢は、
富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。
正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。
と残しています。 栗山監督の解釈とともに、ぜひ一読しましょう。