【コラム】斎藤佑樹が好きだ。ファンとして7年間、彼の姿を観続けてきて。
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2017年5月31日、舞台は札幌ドーム。
斎藤佑樹投手が623日ぶりの、約2年ぶりの勝利を飾りました。
札幌での勝利に至っては、900日ぶりとのことでした。
日本ハムの斎藤佑樹投手が31日、本拠地でのDeNA戦に先発し、623日ぶりの勝利を手に入れた。5回0/3を投げて5安打2奪三振1失点と好投すると、主砲・中田のバットが3安打5打点と爆発。背番号「1」に待望の白星をプレゼントした。
斎藤は、初回に2死からロペスに中前打されるも、筒香を二ゴロに仕留めて無失点。2回と3回を連続で3者凡退とすると、4回も走者を三塁まで進めながらも失点しなかった。
5回には、2死二塁から許した倉本の左前打で二塁走者が本塁を目指したが、左翼・大田の好返球でアウト。6回先頭の桑原に左翼へ二塁打を許したところで81球を投げて降板した。
日本ハム斎藤佑樹623日ぶりの勝利に笑顔! 主砲中田が3安打5打点の援護 | Full-count | フルカウント ―野球・MLBの総合コラムサイト―
私自信も、当人も「一勝」を、二年間に渡って待ち続けました。
好投してもテンポが悪いのか援護に恵まれず、
6回に急激に崩れ落ちる試合をなんど繰り返しただろうか。
ようやくお立ち台に上がった姿を見て、ようやく胸を撫で下ろしたのは、僕だけではないはずですから_。
※この日のダイジェストはこちら。
※ はじめに
この記事は、私「北のウォーリー」こと片岡慎悟のコラムです。
10年来日本ハムを応援し、プレー歴15年を数える私の観点から書きます。
もし興味が出てきたら右の記事も見ていただけると嬉しいです!
プロに入ってからの斎藤投手の特徴は?
知っている方も多いでしょうが、簡単な略歴を。
斎藤佑樹…
1988年群馬県生まれ。
2006年早稲田実業高で「夏の甲子園(第88回高校野球選手権大会)」で優勝。「ハンカチ王子」で一躍、時の人となる。
早稲田大学を経て、2011年より北海道日本ハムファイターズ入団。
現在プロ7年目を迎える。
彼の長所は「コマンド力」にあります。
・三振を取りたいときに狙って投げられる、低めへのボール
・早い段階で打ち取りたいときに投じる、内角球への厳しい球…
この能力に長けた、現在の斎藤投手が打者を抑えるための意図は二つあります。
①ストレート・フォークを主体に 、空振りを奪う
基本は②で組み立てつつ、場面に応じて①に切り替えるのが、現在の斎藤投手です。
さらに斎藤投手は、
・「打球反応の良さ」
・ランナーを出しても「牽制球で刺す」
という非凡さを持っており、投手に欲しい能力を満遍なく持っている…。
これら引き出しの多さと、切り替えができる柔軟な投手が斎藤投手なのです。
【※参照】
①2012年3/31開幕戦 9回1失点完投勝利
(特に"1:29"の、1失点後の中村剛也選手との対戦が大きく、"②打ち取りたい場面で打ち取る"を見せる真骨頂でありました。)
②牽制
(一塁走者の駿太選手はスタートを切りたかったのでしょうか。斎藤投手のスキ・タイミングを測りきれず、牽制で刺されてしまいました。投手としての非凡さを感じます)
プロ入り後の斎藤投手は期待を下回る成績が続いており、事あるごとにバッシングの対象となっています。
しかしこうしたバッシングなど、彼の生き様を見ればなんと無駄な事かと。
「内容的に厳しい」だって? 匿名で言おうが百も承知
しかし、匿名でのコメントは辛辣です。
かつて大怪我を患った事実があろうとも、匿名のコメントが日常茶飯事。
別にそれがどうということはありません。
「ハンカチ王子」と呼ばれた2006年の夏が、それだけ僕らの脳裏に焼き付いて離さない証左なのですから。
特に昨日(2017年5月31日)の投球は素晴らしいものでした。
最速143kmを記録、一人ランナーを出しても直ぐさま併殺打に切って取る、
素晴らしいゲームメイク振りでありました。
ここまで投げられるだけでも、斎藤投手は素晴らしいものです。
道を踏み外していれば、2012年でこの姿を見る事がなくなっていたかもしれないのですから。
二度の怪我歴を持つ斎藤。それは右腕として致命的であった
一度目の怪我は大学2年次、2008年に「左股関節」を故障。
ケビン氏は「実は彼は大学2年時に左の股関節を故障している。その辺からフォームが崩れ始めている。体が小柄で柔道でいう一本背負いのようなフォームの彼の左股関節がブレてしまうと全てが遠回りになってしまう」と(中略)、
斎藤がひた隠しにしてきた“元凶”に言及。
右投げにとってボールを投げたあとは、身体を左脚で支えることになります。
この左脚が筋力不足やケガで不安定だと、身体を支えきることができません。
身体に体重を預けきれず、ボールに身体の反動が乗り切らないのです。
左股関節を痛めた斎藤投手は、左脚をかばうように投げるようになります。
右側に力を入れてゆくと今度は右肩に過度な力が入ってゆく。
そうして2008年から2012年の4年間、誰にも言えずに投げ続けた結果、
右肩に「肩関節唇(かたかんせつしん)損傷」という大きな怪我を抱えてしまいます。
※肩関節唇(かたかんせつしん)の怪我とは?
「肩関節唇の役割」と「怪我の症状」
以下、引用とともに説明します。
関節唇(かんせつしん)は、肩の受け皿としての役目をもつ肩甲骨関節窩の輪郭の周囲を取り巻くように覆った繊維状の組織のことを言います。前方、後方、下方の関節唇には関節包靭帯と呼ばれる肩関節が前後のずれを少なくするためについています。
つまり、関節唇は肩関節の安定性を高め、前後や上下にぶれないように支えるという役割を担っていると言えます。車止めに例えられるように、脱臼を防ぐ働きもあります。
通常は、関節唇は骨にきちんと付着した状態となっています。しかし、肩を酷使する、あるいは肩に怪我をすることではがれたり損傷を受けたりすることがあります。
関節唇は、損傷によってかえって動きを阻害する要因になってしまうこともあるのです。こういった状態を「肩関節唇損傷」と言います。
肩関節唇(かたかんせつしん)損傷という「致命傷」。
野球にとって、"投げる"動作はたいへん重要です。
肩関節唇損傷という怪我は、この動作を奪いかねない重症となります。
日本プロ野球でも例として以下の選手が患い、引退していきました。
(太字は現役選手)
・河内 貴哉 (1999-2015 広島):広島のエース候補と言われた左投手。2008年肩関節唇及び腱板部の修復手術。一軍復帰までに5年を要したが、2012~2015年の4年間で75試合に登板
・斉藤 和己 (1995-2007 ダイエー・ソフトバンク):2000年代を代表した右腕。2008年1月に右肩関節唇修復手術。リハビリに5年かけたものの二度と投げることはなかった。2007年の段階で「腕を降って歩いただけで亜脱臼する」という惨状であった
・寺田 龍平 (2008-2010 楽天) 2007年ドラフト一位投手。2009年に右肩関節唇手術、その後一軍に上がることなく引退
・坂田 将人 (2011-) 2012年9月12日に左肩上方関節唇の手術を受け、現在も登板を続ける
・馬原 孝浩 (2004-2014 ダイエー・ソフトバンク⇨オリックス) 2012年右肩腱板と関節唇手術。2013~2015合計で67試合に登板するも「ベストのパフォーマンスができなくなった」と引退
・ケッペル (2010-2013 日本ハム) 2012年、右肩関節唇クリーニング手術。2013年に8試合 防御率6.14で退団
・山田 秋親 (2001-2012) 2008年、右肩関節唇の手術 。2010年に28試合 防御率4.88のみで引退・ユウキ (1998-2010 近鉄⇨オリックス⇨ヤクルト) 2008年、右肩後方関節唇損傷のため離脱し内視鏡手術。その後リハビリも引退。度重なる右肩の怪我より「一億で壊れない肩が買えたら借金してでも買った。それを返せる自信もあった」」とコメント
・ウィリアムズ(2003-2010 阪神) 2009年、左肩関節唇損傷の怪我で手術、引退
・中里 篤史(2001-2011 中日⇨巨人) 2002年、右肩脱臼・関節唇損傷で手術。2005年に復帰するも2005-2011で32試合のみ登板し引退
・森 慎二(1997-2008 西武⇨MLB) 2005年、右肩脱臼・関節唇損傷で手術。その後一試合も投げることができず引退
もちろん選手個別に症状は異なりますが、彼らのほとんどは怪我以前の実力を発揮できずに引退しています。
最悪の症状であれば「2000年代最高の投手」と称えられた斉藤和巳投手のように、
二度と投げることができないケースもある怪我なのです。
そんな重症を斎藤投手は2012年に抱え、
自然治癒と筋力トレーニングによって復帰することを決断しました。
肩関節を怪我して、選手生命を失う選手が存在してきたなかで、
これだけ投げられるというのが「奇跡」なのですから、
どうして彼のことを中傷できましょうか?
茨の道を歩む彼の姿と、自分の姿を照らし合わせてしまう
彼の抱えた怪我は想像以上に甚大でした。
2012年冬、彼は「手術か、トレーニングによる自然治癒か」の二択を迫られました。
手術をすれば、復帰できる保証はない。
中垣征士郎トレーニングコーチ(当時)とも相談し、彼は決断しました。
筋力トレーニングを積み重ねて地道に治していくことを。
斎藤投手は、茨の道を掻き分けるような方向を、最善と考え選びました。
そうして、2013年の最終戦でどうにか投げられるだけの状態までに戻ってきたのでした。
「甲子園でハンカチ王子と、早稲田のエースと呼ばれたあの時の実力が戻ってくるとは到底思えない」
「開幕投手を飾りエースとなりかけた2012年に"関節唇損傷という大ケガ"を患ったのが不幸だった」
「彼ほど、知名度も賢明な選手なら、栗山英樹監督のように早くに引退するのも、人生かもしれない」
それでも彼は、"燃え尽きる"ことを心に決めているのかもしれない。
永遠に"過去の栄光"に悩まされようとも、心にもない野次が飛んでこようとも、
彼は茨の道を選んだ。
依怙贔屓(えこひいき)だと言われようとも、限界と言われようとも、高校時代が彼の…と言われようとも、マウンドに立つことを選んだ彼に、なんの非があろうか。
思い起こせば7年間、彼を観続けてきた
2010年10月28日、受験勉強の中で心を躍らせながら聴いたドラフト会議。
誰もが北海道に来ることを喜んだ、高三の初冬。
2011年の春、9失点を喫した不安を振り払った1年目。
2012年の夏、完封してエースに上り詰めるはずだったあの時。
彼は選手生命の危機に立たされる。
手術を行えば、戻ってくる保証は何一つない。
彼は手術をせずに、戻る道を選んだ。
2013年の夏、やっとの思いで立ったマウンド。あの時と同じ夏
機械は冷徹に、現実を刻む 134km,130km,133km...
あの夏、酷暑の中で刻んだ、147kmはどこへ行った
「返してくれ!彼は僕らのエースになるはずだったんだ!」
真実は、残酷だ。
斎藤選手は2013年、25歳の頃に言葉を残しています。
「マー君のことを訊かれたら、『すごいな』『これでメジャーに行くのかな』とか、みなさんと同じようなことしか答えられません。
高校の時のこととか、ライバル云々とか、そういうコメントはしないと思います。それは、いつか追いついて、追い越したいと思っているからです。勝負は今だけじゃないんだって、心のどこかで思ってます。
24歳、25歳の現時点では、ピッチャーとしてマー君の方が上です。でも、30歳になったら、40歳になったらどうかということは誰にもわかりませんし、そのための大学4年間だったと思っています。そこには僕、けっこう自信を持ってるんです」
斎藤佑樹の覚悟「何が待っていたとしても、それも僕の人生」|プロ野球|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva より引用
人生はずっと続く。
そう悟った彼は自分を「亀」と形容して、地道に復帰する道を選びました。
そうして斎藤投手は2013年の夏に実戦登板できるようになりました。
2013年10月2日、最下位・6位が決まった最終戦。一軍復帰を飾りました。
4回6失点。抑えるとは思えない球威でも、投げられることが奇跡のようでした。
翌年2014年7月31日に785日ぶりの勝利投手。
それから3年間で3勝と「それなりに投げられる状態」のまま、今に至ります。
「もう後はない」と2017年のシーズンを戦っています。
今年で29歳の彼、25歳の僕。
筆者の僕も、毎年のようにあとがありません。
来年はどこにいるか、どんな人生を選べるのかなんて一切分からない状態が続いています。
いばらの道を進むように。
斎藤投手の姿は、僕の姿のように。
僕は彼のことを応援し、観続けてきました。
野球選手としての生き場所を奪われかけた彼が、どんな努力を積み重ねて一軍のマウンドに立っているか私たちは知るはずもありません。当然、私もです。
ここで書いていることも、表面的なものでしかないはずです。
彼が一生をかけて投げ続ける限り、私は斎藤投手を観続ける側でありたい。
彼の生き様は、僕らの姿そのままです。
暗闇の中から、光を見出すように生きるその様は。
だから、彼の一挙一足を観ていたいと、誰もが思うのではないでしょうか。
2013年10月2日、怪我から復帰した試合後の記事に戻ります。
彼の決意が見て取れる文章です。
……うん、心配、してましたね。心配してました。だって、やっぱり投げたくないという気持ちもありましたし、100人が100人、投げるべきだという状況でもなかった。投げて打たれて、ここまでやってきたことを信じられなくなるのも怖かったし……
でも、そんな中で栗山監督が『投げてみて』と言ってくれました。あの日のマウンドはそういう場所だったので、そこには何か、僕が進むべき方向を見出せる、意味深いものがあるんじゃないかと思ったんです。
もしかして、投げたら何かスイッチが入るかもしれないという兆しも感じていましたし、いずれは通らなければならない道ですから、それなら通ってみようと……
どんなことが待ち受けていたとしても、それも僕の人生ですから。(中略)
初球……何を投げましたっけ。インコースですか?ストライク?
いや、全然思い出せないんですよ。あの試合、ほとんど記憶になくて、なぜだろう、何も覚えてないな。あの日、何を着ていたかな。けっこう、着ていた服は覚えてるんですけど、どんな服を着ていたかも思い出せない。
ああ、試合が終わってから武田勝*1さんに誘っていただいて、食事をしました。それは覚えてます。
『無事に投げられてよかったね』と言って頂いて、一緒に鉄板焼きを食べました(笑)
斎藤佑樹の覚悟「何が待っていたとしても、それも僕の人生」|プロ野球|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva
そうして 何十年後に何を悟り 何を語るのか
僕らはきっと 彼の声に 耳を傾けるはずだ
人間とは 経験の深みを後世に伝えられるから 素晴らしい
2017年5月31日は いい1日だったと きっと振り返る
そんな斎藤投手も6月6日で29歳となりました。
この年齢に、彼の上司であり北海道日本ハム監督・栗山英樹監督は引退しました。
ここからもう一度飛躍し、日の光を浴びることができるのか?
たとえいつ、最後の光が終わろうとも、淡々と彼の姿を見続けようと思うのです。
29歳の夏に期待しております。
人生は続く。
日本ハムコラムはこちらもどうぞ。
*1:2006~2016 斎藤投手の先輩。27歳でプロ入りしてから、10年間で78勝を記録。エース格の投手だった