インドネシア・カリバタ英雄墓地へ、日本人兵士の墓へ参ろう
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(まえがき)
昨年2016年にインドネシアに行った話をしていなかった。
(※この記事をアップした日は2017年9月でした)
お題が「私のおじいちゃん 」ということで、この機会に書き残そうと思う。
昨年インドネシアに行った時の話をずっと書けずにいた。
怠惰だと言われたらそれまでなのだが…書こうか書くまいか迷っていたことも。
インドネシアと縁の深い歌手・五輪真弓のセレクションを聴いて閃いたので、
一気に書き綴った次第。
現地で起こった茶番のエピソードは正直、蛇足だったとは思うが…どうか少しだけ、先祖の物語に触れる機会にしていただきたい__。
昨年の2016年11月、インドネシア・ジャカルタ「カリバタ英雄墓地」に向かいました。
インドネシア共和国が直接運営するこの施設には、12人の日本人が「インドネシア独立の英雄」として埋葬されていることをご存知でしょうか。
【目次】
【まえがき】
僕には敬愛する祖父がいました。2011年に93歳で旅立って行きました。
僕は小さい頃から彼のことを「おじいちゃん、おじいちゃん」といつものように追いかけていました。おじいちゃんっ子ですね。
中学・高校になってから少し実家を離れるようになってからも、彼が入院してからもほぼ毎日のように病院に行っていました。
受験勉強の時期でレベル違いの無謀な受験だと自分で分かっていても、不合格になると覚悟していても、もっと時間を割かなきゃいけないと分かっていてもおじいちゃんに顔を見せに行っていました。
そのくらいに、おじいちゃんには心酔していましたし、敬愛もしていて、
「ずっとおじいちゃんの姿を、足を運んだ場所を追いかける」と決心しています。
はっきり言って、そのために高知県に移住したようなものです。
「おじいちゃんの生きた場所を、この目で見たい」
「もう誰も片岡家のことは書けないから、僕が書く」
そう胸に秘めて、高知県に移住しました。
とにかく90歳を超えても白髪がビッシリと生えていて、病気で衰えるまで常に髪を整え続けたダンディな祖父…。彼の姿を、今もなお僕は追い続けているのです。
その一環として、彼が終戦を迎えた地だとされるインドネシア・ジャカルタへと足を運んだのでした_。
【中心部から郊外へ】カリバタへの行き方
①電車などの公共機関を使う
近くの安宿から、ゴンダンディア駅(Stasium Gondangdia) → カリバタ駅 (Stasium Duren Kalibata) 、ボゴール(Bogor)行き へと向かうルートを取りました。
【参照】このようなルートとなります
②カリバタ駅 → 徒歩でカリバタ英雄墓地へ
駅からそのまま西へと向かえば、墓地へと向かうことができます。
歩いていくと、広々と荒いアスファルトが…。
本当にこの先で大丈夫か、道歩くおっちゃんに道を聞いた。
しばらく歩くと、整備された道並みになっていきます。
左を見てみると、池が見えてきました。
歩くこと15分ほど、仰々しい空間が見えてきました……。
国立墓地「カリバタ英雄墓地」です。
カリバタ英雄墓地への入場から、場内の雰囲気まで
70年越しの再会。カリバタ英雄墓地へやってきました。 pic.twitter.com/33V2Qrpp76— 片岡 慎悟 (@KT_OKey) 2016年11月18日
しかしこのまま正面からは入ることはできません。
(と言うよりは、入ってはいけない雰囲気)
右側に、警察官のいる入場口があるのでここから入っていきます。
入場するには、所定の手続きが必要。
・「身分証明書の提出(退場時に返却)」
・「目的、誰のお参り」を記入
して、警官の後について墓地へと入っていきます。
僕の場合だと、
「パスポートの提示」
「祖父と同じ部隊であったと思われる日本人」を慰霊する
と伝えたらOKしてくださいました。英語は通じました。
警官「ここからは写真撮影は禁止です。撮影する行為はしないように」
「あそこにいる管理人に付いて行きながら、墓地内を進んでください」
ここからの画像は【引用】と管理人さん(墓守の人?たぶん40代後半)とお話で進めていきます。
管理人:これら全て独立戦争に参加した兵士たちのお墓。
インドネシア人も日本人も関係なく埋葬されているんだ。
お墓の形もみんな同じだよ。
【引用元】カリバタ英雄墓地 | Mapio.net
どのお墓も、
・墓碑(イスラム教・キリスト教・仏教と宗教によって形が異なる)
・ヘルメット(墓碑の前や横に置かれたり、掛かっているところも)
がありました。
管理人:日本人兵士のお墓を全て見てみたい?
それなら付いてきて。
【引用元】【カリバタ英雄墓地】日イの歴史に思いを馳せる場所 | 海外旅行キュレーションサイト|tripuuu(トリップー)
この中には、北海道出身の兵士もいたり、中にはイスラム教に改宗してインドネシアの名前を持つ人もいました。
祖父の話を聞くあたり、この北海道出身の兵士もおそらくは、
朝鮮半島から上陸し、中国沿岸部→タイ(ビルマ)→マレーシア→インドネシアと渡って行ったのでしょう。
生前、祖父は甥っ子に話していました。
・希少価値の高い自動車の運転手を務め、物資の運搬を任としていたこと
(当時は自動車運転できる者が少なかったらしく、補給部隊は正に要)
・銃撃戦に巻き込まれたら真っ先に逃がされていたこと
(運転手がいなくなったら物資を置いていかざるを得ない。)
・(飢えに苦しんだと思いきや) 生い茂っている果物を入手していたので、それほど餓えずに、食いつなぎながら生きていけたこと
甥(自分にとっては叔父)から聞いた限りでは、こんな話を残していたそうです。
特に叔父が印象に残っている話は、敗戦が知らされたしばらく後の話です。
日本は敗戦し、同僚と「インドネシアに残るか日本に帰るか」について話していたときのことです。祖父はこう話したそうです。
「俺には両親や、甥っ子が待っている。
どんな手段を使ってでも北海道に帰るよ」
樺太に残した両親と再会するために。
1年をかけて、北海道に戻ったのでした。
_いま調べる術はないけども、彼らはおじいちゃんの同僚だったのだろう……。
運命のいたずらで、自分はこの場にすら立っていなかったかもしれない……。
たくさんの思いが込み上げてきたのは、言うまでもありません。
こうして、25の日本人兵士の元へと参拝したのでした_。
【追記】より詳しく日本人兵士のお墓について書いてある記事はこちら。
【おまけ① 国営墓地 退場後のウラ話】
退場してから、道を教えてくれたおっちゃんとばったり会ったので聞いてみました。
たまたま英語が通じるようでよかったです。
Q1.ぶっちゃけ、五輪真弓さん(歌手)って有名なの?
「そりゃあ有名さ!20数年前に学校の教科書で歌ったよ」
_愛はいつもララバイ 旅に疲れたとき
ただ心の友と 私を呼んで ♩_
日本では「恋人よ」「潮騒」など、叙情的な歌詞で有名な五輪真弓さん。
「心の友」は日本だとかなりマイナーな曲なのだが、インドネシアではラジオで放映されたことで爆発的に人気になったとのこと。
(心地よいメロディーのお陰なのだろうか?)
それからというもの、
インドネシアの小学校では音楽の授業で取り上げられ、合唱コンテストや音楽学校の課題曲にもなっているそう。
国内でも度々カバーもされており、日本曲の象徴となっている様子。
Q2.日本について興味あるテーマってある?
「アダルトビデオっしょ!」
へぇぇ、ボディーランゲージは世界を超える……
「オマエのお勧めいるんだろ?見せてくれよ!」
…… は?
いやいやおっさん、ここ国営施設の近く…。
「オマエのお勧めいるんだろ?オマエも男だろ!」
「………」
あんまりにしつこいので、とある嬢の画像をちょこっとだけ見せた。
本人はとっても綺麗だね!と言ってましたが、
(国営施設の近くで、俺なにやってるんだろうね)
苦虫を噛むような顔で、横目でスマホ観ながら、と思っていた…。
それはともかく、お互いそこそこの英語にも関わらず、
通じ合った気がするのはおっちゃんの性格のおかげでしょうか。
「オマエ、いい友達!サンキューサンキュー!」と
裏表のないような、とてもフレンドリーな人でした。ありがとう。
墓地を去る頃には、雨雲はすっかり上がっていました_。
【おまけ②】ジャカルタ スナップ集
・ジャカルタの電車。
・東京、東急線の電車を使っているとのこと。
・改札口を通る。
・ちなみに切符を買うのではなく、専用カードにお金をチャージするシステム。
・これだけ見ると、日本の風景に見えなくもない。
・露天でフルーツを売る人。
2000ルピア(20円程度)という破格の値段……。
*後日、友人がジャカルタ市内を案内してくれました。
滞在期間中「フルーツインドネシア2016」というイベントが開かれていた。
バナナの種類は大別すると10種類ほどあるそうだ。
非常に大きな品種、殆ど甘みがない品種、色とりどりあることに気づかされた。
インドネシアに足を運ぶことができて、心からよかったと思えます。
ひとつ祖父の足跡であろう場所まで行くことができました。
それでも、まだまだ彼の姿を置い続けることとなるのでしょう。
それでは、また。