【歴史】江別市野幌駅から湯川公園まで…屯田兵の足跡をたどる
かつて住んでいた町を歩いて回ってみた…
そんなモノ好きな方はいるだろうか。
たいていの人は住みなれた地元なんて歩くことなんてしない。
"住み慣れている"から。
だけど、ひとつなにかの思い違いで歩いてみたら気付くかもしれない。
灯台もと暗しってやつだ。「自分の町って、意外と小さかったんだな」と。
江別市野幌駅から、湯川公園2.2kmを歩く
今回の舞台は、北海道 江別市(えべつし)。
札幌市の東隣にあり、"札幌のベッドタウン"として位置づけられる。
人口が減り続ける北海道において、ほぼ横ばいで推移している自治体だ((人口11万9011人、平成30年8月1日現在(参照:平成30年毎月の人口 | 北海道江別市公式ウェブサイト)))。
アクセスの良い国道12号線には大手商業施設が立ち並ぶ反面、駅前は閑静な住宅街となっている。
もともと農業が難しい泥炭地帯であったことを逆手にとって、レンガ・土管製造で栄えた町だった。現在も少なからず工業地帯で生産されているが、昔に比べると目立たなくなっただろうか。
登窯(のぼりがま)とは、
江別でのレンガ生産初期の明治時代に用いられた窯で、傾斜面に焼成室を段々に連ね、下から上に向かってレンガを焼き上げていくものです。
かつての不作地帯も今は「小麦」に象徴されるように、農業が盛んになっている。
その他、米・山わさびなど豊かな生産地ともなっている。
野幌駅舎
2011年10月に現在の駅舎に新調された。
かつて踏切の状況によっては2~3分も待ちぼうけを食らうこともしばしば…
そんな交通渋滞とは無縁となり、南北のアクセスも容易くなった。
グリーンロードを歩く(野幌駅〜湯川公園)
野幌駅から湯川公園まで測定してみると、たったの2km強しかないと分かった。
少し史跡を寄り道しても、30~40分で公園までたどり着けてしまうくらい。
(子供の頃はこんな距離で「歩くのめんどい!」とか言ってたのか…)
と気づくかもしれない。
かわなか公園と、子ども盆踊り歌碑
(写真左は野幌公民館と青いアジサイ)
夏は噴水が吹き上がる。
設計が良くできており、アスファルトで乾きやすいこともあって親子連れや夏休みの生徒の遊び場になっているようだ。
マップを開いて初めて気がついたのだが、
公園の脇には、北海道夏の風物詩「子ども盆踊り」の歌碑がある。
(画像参照) 秘境100選 Ver2 | 2007年10月
道外の知らない方に注釈すると、
北海道にて、地域のお祭りでは「子ども盆踊り」「大人盆踊り」の二部構成
になっている。以下はその子どもに向けた盆踊りの歌詞となっている
そよろそよ風 牧場(まきば) に町に
吹けばちらちら 灯がともる
赤くほんのり 灯がともる ほら灯がともる
シャンコシャンコシャンコ シャシャンがシャン
手拍子そろえて シャシャンがシャン
(歌詞は4番まである_中略)
教育的理由だのと理由ありきで「子ども盆踊り」が誕生したのだが…
その原点は江別市にあったのだ。
野幌開村緑地
公園を過ぎると、中学校の隣に「野幌開村緑地」という石碑がある。
蝦夷地を開拓した「屯田兵(とんでんへい)」という存在をご存知だろう。
彼らが明治時代に、野幌一帯を開拓したことを記録したものだ。
かつての蝦夷地は、松浦武四郎という江戸時代の探検家によって北海道と命名された。
(松浦は四国遍路や樺太探索するなど、広範にわたって活動した)
北海道と改称された明治以後、多くの和人(本州側に居た日本人)が北へ渡った。
碑文曰く、野幌一帯は「鳥取、鹿児島、石川、佐賀、熊本」の屯田兵が入植したと記述されている。
開村50周年比碑。文字が消えかかっている。
なぜか「教育」の二文字だけ黄色で塗られていた…のは偶然か。
(参照) 屯田兵をもっと知る
・江別市屯田資料館(野幌屯田兵第二中隊本部) | 北海道江別市公式ウェブサイト
・江別の屯田兵 4.野幌兵村 | 北海道江別市公式ウェブサイト
(参照) 野幌開村緑地について記述されたサイト
ガラス工芸館
かつて「北海煉瓦合資会社」という会社があり、この会社代表の邸宅であった建物。
現在は、ガラス作家の柿崎均さんの活動拠点となっている。
工芸講座も開いているそうなので、下記をチェックしてみてほしい。
錦山天満宮
(詳細情報)
・営業時間(4/29~11/3の期間のみ)
土日、祝日、振替休日… 9:30~16:30
・所在地:江別市野幌代々木町38-11
・HP:江別市屯田資料館(野幌屯田兵第二中隊本部) | 北海道江別市公式ウェブサイト
江別第二小学校を通り過ぎる。
写真右側の校舎は老朽化により建て替えられた。
(参照)江別煉瓦全集 04.江別市立江別第二小学校 | 思い立ったが吉日! -北海道212市町村カントリーサインの旅-
キリスト教会前を通る…
湯川公園 (屯田兵屋)
締めるのは、住宅地に囲まれながらも広大な自然公園となっている「湯川公園」だ。
江別はおろか、道内全域を見渡してもかなり大きな自然公園となっている。
小さな野球場ができそうなくらいに大きな芝生に…、
下ると遊具・バスケットコートがある。
これだけ起伏がある公園も珍しいものだ。
森林地帯に入ると、小川もあった。
雨がほとんど降らない影響で干上がっていたが、アメンボ・カエル・トンボを目撃することができるとのこと。
森の北側に行くと、木造の建物が見える。
1977年に再現された、屯田兵屋(とんでんへいおく)である。
この建物は1886年に広島県から入地した湯川さんの住居を、ご家族のご協力により、
当時と同じ場所に、できる限り近い形状で再現したものです。(中略)_
野幌兵村(野幌屯田)は、明治18年(1885)の138戸と翌19年(1886)の87戸、計225戸の入地によって形成され、江別兵村(江別屯田)と6丁目通を境にして10丁目通にかけて配置されています。
17.5坪の和式兵屋で、給与地は1戸4千坪でしたが、後に四番通北側の現元野幌や大麻方面に追給地が与えられています。
野幌屯田の人々は、九州・中国地方出身者がほとんどで、入地当時は北国の冬の寒さや雪の中での生活が厳しいものであったと想像されます。
兵村では、麦・豆類、馬鈴薯などの他に養蚕と麻の栽培が勧められ、野幌駅の鉄道沿線一帯に桑園、大麻方面には麻畑が広がっていたのです。大麻の地名は、当時札幌寄りを「大曲」、野幌寄りを「麻畑」と呼んでいたので、その頭文字を組み合わせて「大麻」と名付けたと言われています。
野幌屯田は、当初第一大隊第四中隊でしたが、明治20(1887)年、江別に本部を置く第三大隊第二中隊となっています。兵村の中央部、現錦山天満宮の位置(野幌代々木町)に第二中隊本部が置かれ、中隊長として吉田清憲(きよのり)大尉がいました。
【総括】住みよき住宅地帯は、1886年の開村から始まった
昨年、居住人口は13万人を超え、人口減に直面する北海道の中にあっても需要の高さがうかがえる。
その中でも商業施設の充実する野幌は不動産でも人気のある地域だ。
近年、インターナショナルスクールも開校している。
先の野幌開村緑地や錦山天満宮の横にあった資料館、この湯川公園の兵屋がある理由が掴めると思う。
この住宅地に広がる一帯は、広島県や石川県と言った西日本から、
ある人は仕事を求め、土地を求めて、厳冬の北海道へと渡った人々の史跡なのだ。
自分の街は、どんな成り立ちだったのだろう?
はたまた、自分の家族が今にたどり着くまでどうしてきたのだろう?…
#北海道150年 #戦後73年 ……
振り返る機会を作ることで、またひとつ生きる理由が見つかるかもしれない。
「あいろーど 厚田」で購入できるお土産を発見して、まとめてみた。
2018年4月27日に開場してからというもの人気で、
訪れる人々がドシドシ続く「あいろーど厚田」という道の駅。
一度は足を運んでみたいという方が
まだまだいらっしゃるようですね…。
というわけで、今回この記事でいろんなサイトや取材で取り上げられた
「お土産」をまとめてみました。是非ご参考にしてみてください。
※この記事は、下記の続きです。
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